山口県山口市の信光寺 浄土真宗本願寺派/西本願寺 濟波山

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信光寺の歴史

信光寺の歴史

信光寺の開基・西了は伊予(愛媛県)の人で、伊豫権介越智親清の孫、中倉筑前守通清の子であった。
通清は大内義興の招きに応じ、周防山口に来て、ますます忠誠を尽くした功績によって、濟波(さいは)の地―当山一帯の地名―を所領として賜る。

しかしながらその後、義興が戦いに敗れて長州の地におちる時、通清は山口を守ることに専心努力したが、その甲斐も無く遂に戦死する。
信光寺境内伽藍

 

開基・西了 その子の西了は、わずか7歳であったが、濟波の地にて母によってたくましく成長し、出家して仏門に入った。はじめは高野山に上って真言の密法を修めること5年、後には園城寺(三井寺)に入って、顕宗を修めた。

その後縁あって、本願時第9代実如上人に謁見して弘願の奥旨を受けて金剛の信心を領得し、上人の弟子となった。

さらに10年の刻苦精進を経た後、再び濟波の地に帰って真言宗の頽廃した古院を修復して信光寺を創立し、真宗の法義を弘めることとなった。

 

西了が帰国するにあたっては、その師、実如上人から木仏一体と寺号、ならびに親筆の御文章を賜った。その木仏が、当山の本尊として安置されている。

このようにして西了の化導によって信者となるものが非常に多くなり、また徒弟として業成って、その郷土に帰って一寺を建立するものが数多あり、旧藩時代は13ヶ寺の末寺を有していた。

そして西了は一意宗風の宣揚につとめて、永禄3年(1560)4月8日に遷化した。その後は了善が跡を継いで、爾来世襲連綿として住持相続して、今日の第16世釋藤丸に至った。

 

開基・西了 信光寺の山門を出ると、まっすぐには江戸へ、右へは長崎へ、左へは山口・萩へという昔の街道のジャンクションである。あの篤姫もお輿入れのとき、この街道を通ったという。

現在の本堂は元禄9年(1696)の建立、庫裏は延享3年(1746)の建立であり、門信徒一丸となって取り組んだ平成大修復工事(1992〜1996)、さらに第二期整備工事((2007〜2008)により境内全体が創建当初の壮麗な伽藍によみがえった。